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『空海』という本の話

 松長有慶理事が、高野山大学の学長をなさったあと、東北大学大学院に行かれまして、九州大学で密教の歴史を研究なさって「密教経典成立史論」というのをお書きになって、博士号を取得なさいました。高野山大学の学長をなさっていた頃に私は先生に師事したのですが、そのあと、高野山の管長を明治以降はじめて8年に渡って務められまして、その間、日本仏教会の会長もお務めになり、ダボス会議で英語で演説したということもありました。真言宗十八本山というのがあるのですが、その長者もお務めになりましたし、本校の理事も長い間お務めいただきました。
今日は少し先生の思い出をお話ししようと思います。
 実は、ずっと黙っていたのですが、高野山の100㎞ハイクの出発式の直後に電話がありまして、長い間ご無沙汰しているから、これから入院するので会いたいとおっしゃって、急なことではありましたが、時間を作ってお会いさせていただきました。松長先生は、身の回りの世話をしておられた寺内さんという方に車を運転させて、一人でお見えになり、一時間ばかりいろいろお話しさせていただきました。
 そのときに松長猊下がお話になったことで、『空海』という本の話をなさいました。これは猊下が 93 歳でお書きになったもので、岩波新書から出版されています。この本は、弘法大師の著作を全部読んで、代表的なものだけではなくて、書簡等もすべて目を通してお書きになった御本であります。
 いくつかの話をしますと、インド密教でもそうですが、多くの仏教では魔といった邪悪なものは払わなければならないと考えますが、弘法大師は、その魔になるもの、たとえば鬼神にさえ仏性を認めて、それをも成仏させてやらねばならないと考えるのです。一時の敵であって、本質的な的ではないので、そういう存在も含めて認めてやって成仏させるという考え方をお持ちであったという話です。
 あるいは禅宗などはどちらかというと、欲望を絶つと考えますが、密教はどちらかというと欲望肯定であるということです。ただし、その肯定というのは、小欲より大欲であると書いてあるということです。小欲よりも大欲というのはどういうことかというと、小欲というのは量のことではなくて、自分のことばかり考えていることである。これに対して大欲というのは利他のことである。利他に対して強い欲求をもっているのが大欲であると。
 こういうふうに、弘法大師の著作をずっとお読みになって、このような結論をお感じになって、御本に書いていらっしゃいました。というように御本の話を私がしたのですが、そうすると松長猊下がおっしゃったのは、多くの日本の著作は、弘法大師に関してあまり神格化してはいけないということで、「人間空海」みたいな話に仕上げて、高村薫なんかもそうですが、書く側の自分たちに引き寄せすぎて書いていると。だけど、それでは空海の人間的な部分ばかりで、本当のすごさ、それこそ大谷選手がすごいみたいに、やっぱり大谷と接していたら大谷の本当のすごさが分かるように、私は弘法大師の著作を全部読んだけど、この中で弘法大師はただの人ではないと、人間空海を見ているだけでは弘法大師にはたどり着けないなということを感じた。だから、さまざまな人へアプローチする際に、作家は人間的側面で自分に近づけて書こうとするけれども、それは違うと。自分が近づいていって、その人を見なければ本質は見えないというお話をされて、これは私にとっても非常に印象深いお話でした。
 猊下は一時間ぐらいいらっしゃって、そのあと入院されました。実は先週も意識が混濁することがあるので、意識がしっかりしている間に来てくれませんかと、ご子息でいらっしゃる松長潤慶高野山大学副学長から電話があったのですが、ちょうど私が風邪をひいていたので、うつしては申し訳ないと思って、そのときはお断りをし、今日の午後にお見舞いに伺おうと思っていたら結局こんなことになってしまいました。
 猊下は自分の死を十分に準備されて亡くなった感じで、弘法大師は穀物を絶ったと言われていますが、最終的には自分も同じようなことをされて、食事も摂らず、点滴も打たず、潤慶先生には葬儀の段取りや場所など詳細な指示をなさって逝かれたということです。
 司馬遼太郎の『空海の風景』も、もちろん良い本だと思います。しかし、松長猊下のお書きになった『空海』(岩波新書)もチャンスがあればぜひ挑戦してもらいたいなと思います。
 私自身もいろいろ思い出がありますが、このような方でいらっしゃったという話をさせていただいて、今朝の朝礼としたいと思います。

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