平岡 宕峯先生の教え(著者「般若心境の信仰」より抜粋)

人の話は全身で聞く

 松下幸之助氏は、「私はいわゆる学問がなかったから、他の人が皆私より偉い人のように思え、だから素直に人々の意見に耳を傾けることができ、そうして吸収しようとした。今でも人の意見を聞いて、そこから多くのものを学んでいる」さらに、「他人を自分よりも劣っていると思うよりも、他人は自分よりも偉いのだ、自分にないものを持っているのだと考える心掛けが大切なことである」といわれている。松下電器産業株式会社を一流企業に成長させて、経営の神様といわれている松下幸之助氏でも、このような心掛けで人の話を聞かれるのです。また、高野山真言宗の森管長は、「話は同じ話を何回聞いても、いつも初めて聞く時と同じ心構えで聞くことが非常に大切なことである」といわれています。お釈迦様は、「話というのは毛穴で聞くものである」とおっしやっています。すなわち、話を聞くときには、話をしている相手に集中して全身で聞きとるようにすることです。諸君も経験があるでしょう。話に熱中して聞き入っているとき自然に身体が前に乗り出すでしょう。それは諸君が全身でその話をしている相手に心を向けている証拠であります。話を聞くときは、話す相手が誰であろうと以上のような心構えで聞くようにしてもらいたい。

世の中の厳しさを知れ

 電車や飛行機でもそれに乗る場合に、その出発の定刻時間よりも一分でも遅れたならば、その電車や飛行機に乗ることはできません。五分遅れればなお乗れないし、もちろん五秒遅れてもそれに乗ることはできないのです。このような厳しさをよく理解して勉強に取り組んで行くことが大切なことで、本校では毎朝、朝礼を行っていますが、諸君が遅れず休まず登校して、朝礼の始まる八時四十分までに号令がかからなくても整列がビシッとできれば、本校は、間違いなしに日本一の学校になります。約束や規則を固く守って行くという身構え、心構えが大切なことであります。私のよく知っているアメリカのフロリダ州にあるアドミラル・ファラガット・アカデミーでは、非常にしつけが厳しく、生徒が守らなければならない規則も五百箇条あります。その五百箇条ある規則の第一番目に欠席・遅刻・早退のことについて書いてあります。学校を休んだり、遅刻をしたり、早退したりすることがいかに良くないことであるかがはっきりしているのです。将来社会に出て企業などに勤めても、遅刻したり欠勤するようなものは到底、安心と信頼と尊敬の対象になりません。諸君は、学校には休まず遅れないように十分余裕を持って、登校する良い習慣を身につけると共に、規則正しい生活をして、諸君の目標に向かって間断なく努力をしてください。しかし、その努力をしたために身体を壊したりするようなことが起これば、それは間違った考えを持って努力をしていたか、それとも不平不満を持って努力をしていたからであります。諸君は希望の中に幸福を見出し、将来社会に出て大成することを常に念じて、諸君の一人一人が持っている他の人に真似のできない良いところをグングン伸ばし、天才的能力を発揮することができるよう、その気になって努力をすることが大切であります。以上のことをよく理解して、精進努力を続けてもらいたい。

本気になれば摩訶不思議な力が湧いて出る

 第一次世界大戦の時にドイツの兵隊が、突撃の時にはたとえ重い傷を受けても致命傷にならないが、退却の時には、それほど重くない傷までが致命傷になっていることがわかったのです。そこで、ドイツ人は非常に研究心が旺盛であるのでいったいこれはどんな所に原因があるのだろうと思っていろいろ研究したところが、突撃の時には「何くそ!」というふうな考え方で緊張し、相手に負けん意気込みで、そして、相手を征服するような気持ちでいるために、血清の中にオプソニンというものができるということがわかったのです。これを食菌素といい、白血球のようにばい菌を勢いよく食うものです。これは、お互いの身体には、自然に回復する能力とか、自然になおる治癒能力がありますが、その能力が突撃の時には勢いよく働くということなのです。ものを食べる時にも、おいしく食べるとおなじようなことが起こるという説明をしている人もいます。いずれにせよ突撃の時にはこの血清の中にオプソニンというものがでてきて、重傷を負っても致命傷にならず、反対に退却の時には、致命傷でないものまでが致命傷になることがあるということです。決死の覚悟で、本気になって、何くそ!と頑張るとオプソニンが湧き出て来る。そこで冷水でもかぶって「ガッ」とやるということは、やっぱりオプソニンが「グッ」と湧いてくる、とこういうことになるんだろうと思います。物事に取り組む時はどんな時でも「ど真剣にやれ」ということであります。諸君にとっては、試合に行ったら勝ってくる。試験を受けたらパスしてくるということを潜在意識として頭の中に植えつけてしまうことが大切です。試験を受けたらパスをする。試合に行ったら勝ってくる。そのためにはあれもこれもゴジャゴジャややこしいことを考えとったらろくなことはない。試合に行ったら勝ってくる。試験を受けたらパスして来る。はっきりそういうふうに脳細胞を組み立てて行く。これが諸君として非常に大事なことであります。金儲けをするのであれば、世界一、お金を儲ける。こういうふうにちゃんと諸君の脳細胞を組み立てていくのです。諸君は実に天下一品の脳細胞、すなわちコンビューターをもっておるんであります。諸君のこの天下一品の、天下無比の約一四○億の脳細胞を完全に操作していきなさい。君たちは知恵の固まりであるから、知恵は正しい判断によってこれを使い分けていく。君たちは力の結晶であるから、力は努力によってこれを発揮せよと、いつもいっているのです。どこにおっても真面目に努力をし、真面目に勉強すればいくらでも偉くなるのであります。また、怠けたら反対にどんなに偉い者でもだめになる。養生しなかったらどんな強い者でも弱くなるのです。何ごとをやるに当たっても、腹を決めて本気で努力することが肝要であります。

お経を唱えて精神統一せよ

 仏教では、お経を唱えると罪が消えるといいますが、それは本当のことであります。また、お経を唱えると精神が統一します。精神が一つの自的に向かって働くことを精神一到といいますが、「精神一到何事か成らざらん」などというのはこれを踏まえていわれる格言であります。精神が統一すると悪い魂の働きが止まって良いことのできる魂だけが働いてくるのであります。そこに精神統一の意義があります。お経を唱えるということは、精神を統一させることであります。精神を統一すると、今いったように悪い、つまり汚染を残す魂の働きがなくなって、諸君の血液は美しく浄化され、脳細胞の方にどんどん循環していって、精神も身体も健康になって、清らかな良い知恵が湧き出て、習わないでも知っている魂が働いてくるのです。 人間は、それぞれ他の人に真似のできない特別ないいものを一人一人が持っています。そのいいところが皆働くのです。だからお経を唱えて精神を統一するということは、非常に意義深いことであります。

目標をはっきり決めてやれ

 生徒諸君の授業に行って、「君は真剣にやっておるか」といいますと必ず異口同音に「真剣にやっております」と。「真面目にやっておるか」と問えば「真面目にやっております」と言下に答えます。百人のうち九十九人まで答えます。「然からばおまえは大学はどこへ行くつもりか」と尋ねると、「まだ決まっておりません」とこう答えます。これは真剣でない証拠であります。真剣であったならば、自分の行く目標というものがわかっているはずです。自分の行く道を、「私はどこへ向いて行くんですか」というのと同じであって、自分の行く所もわからずに一生懸命歩いているようなもんです。ど真剣にやるということは、自分の目標というものをはっきり決めてやるということであります。そのことをよく認識してもらいたい。人間は、ややもすると目的のために手段に溺れるという弱点を持っておりますから、目的と手段を取り違えたり、目的と手段を混同したりする場合がおこります。本校に来た者は、何の目的を持って本校に来たんかということをまずはっきりさせなさい。何事によらずその時の事情によってフラフラといい加減に、ことの大事を決めようかというふうなことでは、立派な筋の通った人間になれる筈がないのであります。諸君は、まず自分がど真剣になって、自分の行く道はどこだということをはっきり決めてかからないと、脳細胞はグラグラとしてくることになってしまいます。私はもう九十歳を越えていますが、今日までの人生経験を通してこのように確信しております。猿とか、いたちとか、熊とか、犬とかの動物は、脳細胞が猿は猿なりに、犬は犬なりに、熊は熊なりに固まっていますが、人間の脳細胞は浮遊しているというか、目的によってそれが組織づけられていくものであります。例えば、自分は必ず月の世界に行ってくるんだという目標を持った場合には、約一四○億の脳細胞は月の世界に行くべく、いわゆる組織立ってくるのであります。確かに誰でも、その気になってやれば何でもできます。人間の一心というものは恐ろしいものであります。しかしながら何事を行うにせよ、人間、先哲の教えを素直に謙虚な態度で聞いた上で、ことには真剣勝負で当たってください。そうすれば自分の目標は必ず実現します。

世の中のルールを守れ

 宗教で大事なことの一つに戒律があります。戒律とは、約束を守ることであり、誓いを守ることであります。宗教といえばお経を唱えたり、鉦を鳴らしたりすることのように思う人があるようでありますが、それは大きな間違いです。それも宗教の中に入っておるかもしれませんが、約束を守るか守らないか、誓いが守れるか守れないかということも、お釈迦様が説かれた教えの大きなポイントであります。この世のことに対しても、あの世のことに対しても、過去の宿業を消していく上においても、誓いや約束が守れるかどうかということに意義があるのです。私が諸君に訴えたいことは、宗教教育の一番のキーポイント、すなわち一番肝心で必要なことは約束を守る人間になってくれるかどうかだということです。これは世の中においてもその通りなんです。約束を守る人間は信用ができます。約束を守らない人間は信用ができないのです。このことははっきりしていることです。約束の守れる人間は信頼ができるのであり、約束の守れる人間は尊敬ができ、約束の守れる人間は安心ができるのです。宗教教育とは、何も特別のことをするのではないのです。誓いが守れ、約束を守れる人間を育てることなのです。キーポイントはここなんです。諸君はこのことをよく悟ってほしい。守るか守らないかは諸君の胸三寸であります。そのことを諸君はよく悟って、約束や誓いが守れる立派な人になってください。

生きものの命を大切に

 本校では、仏教を中心とした宗教教育を行っています。宗教教育の尊いことは道徳を超越している点にあります。道徳を超越した教えがあるところに、宗教の意義があるわけであります。私は何十億年という生命を持った地球に生まれたこと自体有難く思っています。私は五つまではもつまい、十までは到底育つまいといわれながら大きくなってきました。子ども心にも、自分も命は惜しいが生き物も皆、命が惜しいんであろうと思い、無益な殺生は一切しないぞと決心し、今日まで殺生戒を守ってきました。戦時中に私の家に、食糧のためにと、鯉を十三匹も大和の田原本の知人が届けてくれたことがあります。私は夜の夜中に、こっそりと天王寺の池に全部それを放してやったことがあります。人間が生きているということは動いているということなんです。魚でも、「この魚、活きがいい、動いてるやろ、尾の方がピンピンしてる」といいます。動いているということは、生きているということであり、生きているということは、それだけでもう非常に意義の深いことなのです。そして働いているということは、完全に生きているということなんです。人間は真面目に働くということが一番尊いことです。人間の命は、神様があずかっておられるんでありますから、明日の日の命の保証は誰もできないのでありますが、私は、できることなら一日でも長く意義の深い日々を送りたいと思っています。

四の五の言い訳をするな

 物事を成しとげるには、いろいろな事情があるでしょうが、四の五の言い訳をしなければならないような者は、人間として落第であります。言い訳をしないようになったら言い訳をしなくてもよい生活ができます。人間は、より遠回しにいろいろ言い訳をしますが、言い訳をしているということはもうすでに物事が成しとげられていないということであります。ビシッとした生活をしておらんから、そういうことになってくるのであります。世の中には迷惑をかけても平然として理屈をいっている者がいます。みんなか迷惑をし、それに対してとやかく言い訳や小理屈をこねている者がありますが、とんでもないことで天人共に許されないことです。私はこれを愚者の道としてかたく禁じています。

徳を積む

 人間は、徳を積んで行かなければいかんのであります。徳を積むということは、なかなか難しい。けれども、徳を積まなかったら、一時は栄えても永久に栄えることはできないのであります。いわゆる世の中は、良いことと悪いことで充満していますが、良いことだけをつまみ食いしなさい。悪いことをしても時間がかかって、エネルギーを消耗しなければならないのです。おなかがすいて時間がかかるのは、良いことをしても悪いことをしても同じであります。だから良いことに時間をかける。良いことにエネルギーを消耗する。これは結果が良い。必ず尊敬される人格になるのであります。小さいことでも徳を積みなさい。どんな小さいことでもキッチリとやる。塵も積もれば山となる。徳をどんどん積んでいく。一生懸命真面目に勉強することも、病気をしないことも、全部これは良いことです。良いことを積み重ねることを、徳を積むというのです。世の中の人が認識してくれるように、徳を積んでいきなさい。諸君はすばらしい徳を持っておるんだから、徳を積んでいく。そしたら世の人々は、尊敬してくれます。その第一歩として過ちのない生活をすることが大事なのであります。どれだけ偉くなるにしても、何遍もひっくり返ったりして偉くなるよりも、そんなにやり損わないで偉くなるということが非常に大切なことです。やり損った場合には、自分一人で済まないのです。やり損った場合には、果を他人におよぼしていく場合がありますから、何回も失敗して大成功するということよりも、やり損わないということが非常に大事なことなのです。七転八起といって七通も八通もひっくり返って起きて偉くなるということよりも、諸君は、やり損わないで、偉くなってくれるということが大事なことでありますから、そのことをひとつ十分に考えて、立派な人となってほしいと思います。しかし、何でも一気呵成にやろうとすると失敗をするので、まあ一年でやるところを三年でやる。三年でやるところを十年でやる。十年でやるところを二十年かかってやることです。そういうふうに問題のない道を歩いて行くり目標に向かって努力をする場合は、「急がず息まず」間断なくやりなさい。ウサギのようにやって昼寝をしなさいとはいっていない。カメのようにコツコツ急がず、息まず、たゆまず、いわゆる間断なく一貫して努力をしなさいといっているのです。バランスのとれた努力を続けるのが大切だということです。つまり、過ちもなく、確かな目標を持って毎日をおくりなさいということです。

人間は皆、生き神様、生き仏様である

 人間は皆、顔を見たら一緒であります。目も二つ、耳も二つ、鼻の孔も二つ、身体もちゃんとあって口もひとつあるんだけれども、その人がどういう考え方を持っているかということによって、その人の価値というものが決まるのであります。ですから諸君には、日ごろ、人としての在り方、正しい判断の仕方を十二分に教えてあります。常に自分のやってることに自信と興味を持ち、感謝をして一生懸命に努力し、そして日本一の、世界一の立派な人間になってもらう。「人間には素質があるとかないとかはないんだ」、「誰でもやる気になってやれば、何でもできるんだ」。いってみれば、諸君は全部一人残らず天才の素質を持っておるということであります。  諸君は気がついておるか、おらんか知らんが、このことをよく理解してほしい。人間は、全部生き仏様であり、生き神様であります。これをよく知った人のことを悟った人だというのですし、このことがわかった人が、悟った人であります。「生き神様にしては、出来が悪いじゃないか」という者があったら、それは怠けておるからであります。「怠けておらん。相当にやっとる」というんだったら、それはポイントがはずれているのであります。見当違いな努力をしておるからであります。オランダにあるライデンという大学の門の上に「まず考えよ。しかるのちに断行せよ」という、シーボルトのことばがあるそうです。フランスの法理哲学者オルトラン先生も判断力と断行力ということをいっておられる。これも私が常に諸君に訴えていることでありますが、また一人そういうことで味方がふえたということであります。諸君は狂った判断を持たないようにする。判断の正しい人間が、いわゆる正しい知恵を持っていることになる。知恵を出すために判断をする。力を発揮するためには努力をする。徳を表すためには徳を積んでいく。簡単明瞭であります。実に簡単明瞭であります。諸君は一生懸命に勉強をして、ポイントをはずさないように勉強をする。例えばごはんをおいしく食べるためにはおなかをすかしてから食べる。はっきりしてるんであります。仏教では、仏様になるということがその終局の目的であり、神道の方では、神様になるということがその終局の目標であります。神様や仏様になるということはどういうことかというと、完全な人間になるということであります。完全な人間ということは、神様や仏様と同じような智慧が出て来て、神様や仏様と同じような力が出てくるということです。徳も神様や仏様と同じような徳が備わってくるということであります。

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